Masuk第73話 夫と義母から作られた胚は、すでに私の血液へ入っていました
雅世と冬真の細胞から作られたAUR‐011‐00が、今も残されている可能性を聞いたとき、私は、それを人として想像することができなかった。冬真の母親の卵子と、冬真自身の細胞から作られた存在を、灯やCと同じように、まだ生まれていない子どもとして考えればよいのか、それとも、人の発生過程だけを利用した研究組織として考えるべきなのか、どちらを選んでも、目の前の事実を自分が理解しやすい形へ押し込めることになる気がした。
「確認させてください」と篠崎医師が言った。「ここに記載された冬真さんの細胞とは、精子ですか。それとも、体細胞から作られた多能性細胞ですか」
雅世は、自分の前へ表示された提供記録を読み直した。
『冬真の精子ではありません。皮膚由来の細胞から作った人工生殖細胞と記載されています。私の卵子についても、通常の受精に使われたのではなく、核の一部を除去したうえで、冬真の細胞情報を導入したと説明されています』
「つまり、母親と息子が通常の方法で子ども
第74話 亡夫が残した全計画は、娘の十五パーセントを患者へ返すものでした 冬真が定めた七十二時間の開示期限は、灯の出生時刻から数えるものではなかった。私の炎症値が治療基準を下回り、灯の自発心拍が外部刺激なしで一定時間続いた時点を、母子生存の確認時刻としており、真奈が医療記録と研究口座の動作履歴を照合すると、期限までは二十一時間しか残されていなかった。「二十一時間後に、何が起きるのですか」「開示対象者へ、それぞれの個人記録が自動送信されます」と真奈が答えた。「澪さんだけではありません。灯さんの独立代理人、七海さん、朔也さん、現在確認されているAUR患者十一名、治療へ関与した医療者、患者補償基金の監督者が含まれています。ただし、全員へ同じ資料を送るのではなく、本人に関係する記録と、研究全体の説明書が分けられています」「患者本人へ知らせる仕組みまで冬真が作っていたのなら、なぜ生きている間に説明しなかったのですか」「開示条件を、研究が成功したあとに設定したからです。Aと母体が生存しなければ、全計画は公開されず、個人研究口座とともに削除される予定でした」「成功すれば説明し、失敗して私と子どもが死ねば、誰にも知られないようにしたのですね」「設計上は、そうなります」 冬真は、結果が良ければ自分のしたことを告白し、結果が悪ければ、私たちと一緒に証拠まで消えるようにしていた。生き残った私へ選択肢を返す仕組みに見せながら、選択できる時期を、自分の望む結果が出たあとへ移している。「死んだ人間へ、今さら卑怯だと言っても返事はありませんね」「返事のように見える記録は残っていますが、それを本人との会話だと思わないほうがよいでしょう」と真奈が答えた。「分かっています。それでも、彼の説明を読みながら言い返すと思います。返事がない相手へ怒るのは、無駄だからやめられることではありません」 芙美は、自動開示をそのまま実行させる前に、個人情報の振り分けが正しく行われるか確認する必要があると話した。冬真の設計を信用し、患者の記録を一斉送信した結果、別人の生殖情報や病状が混ざれば、被害を広げることになる。一方、確認
第73話 夫と義母から作られた胚は、すでに私の血液へ入っていました 雅世と冬真の細胞から作られたAUR‐011‐00が、今も残されている可能性を聞いたとき、私は、それを人として想像することができなかった。冬真の母親の卵子と、冬真自身の細胞から作られた存在を、灯やCと同じように、まだ生まれていない子どもとして考えればよいのか、それとも、人の発生過程だけを利用した研究組織として考えるべきなのか、どちらを選んでも、目の前の事実を自分が理解しやすい形へ押し込めることになる気がした。「確認させてください」と篠崎医師が言った。「ここに記載された冬真さんの細胞とは、精子ですか。それとも、体細胞から作られた多能性細胞ですか」 雅世は、自分の前へ表示された提供記録を読み直した。『冬真の精子ではありません。皮膚由来の細胞から作った人工生殖細胞と記載されています。私の卵子についても、通常の受精に使われたのではなく、核の一部を除去したうえで、冬真の細胞情報を導入したと説明されています』「つまり、母親と息子が通常の方法で子どもを作ったわけではありません。遺伝的に近い二人の細胞を組み合わせたことは事実ですが、何をもって胚と記録したのか、どこまで発生したのかを確認する必要があります」「通常の方法ではないと説明すれば、異常ではなくなるのですか」と朔也が尋ねた。「なりません。ただ、強い言葉だけが先に広がれば、実際に何が作られ、誰の同意が侵害されたのかが見えなくなります。私は、この場でAUR‐011‐00を、あなたの兄弟や、灯さんの叔父や叔母とは呼びませんし、単なる細胞とも決めません」「決めなければならないことばかり増え、名前を付ける前の存在だけが、また保存されるのですね」「だからこそ、今すぐ廃棄することも、今すぐ人として扱うことも避けます。記録と現物の状態を確認するまで、こちらの嫌悪感や同情へ結論を合わせるべきではありません」 篠崎医師の言葉は正しかったが、正しいから聞きやすいわけではなかった。冬真と雅世から作られたものが人ではないと早く決めれば、気味が悪いと感じた自分を正当化できる。反対に、一つの生命だったと考えれば、研究した者を残酷
第72話 義母は息子を守るため、幼い私を研究へ残しました 雅世の名前が表示されたあと、最初に動いたのは朔也だった。彼は保全端末へ手を伸ばしかけたものの、画面へ触れる寸前で止まり、代わりに自分の携帯電話を取り出した。「母へ電話する。今ここで、何をしたのか聞く」「待ってください」と芙美が制した。「久瀬雅世さんは、AUR研究と信託を巡る審理の関係者です。証拠保全庫の内容を伝えたうえで問い詰めれば、証言を合わせる時間を与えたと言われる可能性がありますし、会話の一部だけが録音されれば、澪さんたちが、都合のよい供述を強要したという材料にもされます」「では、母が自分から話すまで待てと言うのか」「待つのではなく、代理人を通じて、記録の残る面談を申し入れます。あなたが息子として怒ることまで止めませんが、その怒りを、相手側に利用されにくい場所へ置いてください」「俺は、息子として話したいのか、澪の夫として責任を問いただしたいのか、自分でも分からない。記録に残る場所へ行けば、正しい言葉を選び、母を責める側へ立てるだろうが、それで、家族として話したことになるのか」「正しい言葉を選ばなければ本音ではない、というわけではありません」と私は言った。「私も父の記録を読みながら、裁判へ使えるか、灯の株へどう影響するかを考えました。それでも、父に腹を立てた気持ちまで偽物ではありません。あなたが雅世さんへ会うなら、私は同席したいですが、私を守る夫としてだけ話さないでください。息子として、聞きたいことも聞いてください」「君の前で母へ、仕方がなかったのではないかと尋ねれば、君を傷つけると思う」「傷つくでしょうね。けれど、あなたが本当は事情を聞きたいのに、私のため、最初から母親を切り捨てたふりをするほうが、あとで困ります。私は、あなたから守られた結果、知らない場所で恨まれる妻にはなりたくありません」 朔也は携帯電話を握ったまま、何も表示されていない黒い画面へ自分の顔を映していたが、やがて芙美へ渡し、正式な面談を申し入れてほしいと頼んだ。 ところが、芙美が連絡するより先に、雅世側の代理人から面談の要請が届いた。父の証拠保全庫には、特定
第71話 父が守った研究番号は、最初から私の名前でした 父の証拠保全庫を開く権利が私にあると分かっても、画面へ表示された「開封」の文字を、その場で押すことは許されなかった。保管庫には冬真の救命手順だけでなく、AUR患者の診療記録やC由来細胞の設計情報が含まれている可能性があり、私個人の権限で全てを閲覧すれば、裁判所が凍結した研究資料へ、久瀬製薬の大株主である私が直接触れたと主張されかねなかった。「私の名前を指定して残されたものなのに、私が読めないのですか」「読めないのではなく、開封手続へ第三者を入れる必要があります」と芙美は答えた。「お父様が澪さん個人へ残した手紙であれば、誰にも許可を求めず読めますが、証拠保全庫という形を選んだ以上、私的な遺品と訴訟資料が混在しています。後から、都合の悪い記録を削除した、あるいは、灯さんの十五パーセントを守るためCに関する証拠を隠したと言われないよう、開封時点から記録を残したほうがよいです」「正しいのは分かりますが、父の言葉を読むためにも、会社と裁判所へ見られなければならないことへ納得はしていません」「納得する必要はありません。手続を守ることと、手続へ腹を立てないことは別ですから。ただ、今すぐ一人で開けば、その怒りを利用されます」 岸本沙耶も、灯の独立代理人として映像会議へ加わり、保全庫のうち、私宛ての通知と父の陳述だけを先に開き、研究資料は複製後に封印を維持する方法を提案した。「灯さんの権利と、澪さんの権利は、同じ方向を向くこともありますが、常に一致するわけではありません。仮に、お父様の記録が、十五パーセントは本来、澪さん個人へ渡すべき財産だったと示していた場合、母親である澪さんと、現在の受益候補である灯さんには利益相反が生じます」「私が、娘から株を奪うかもしれないという意味ですか」「奪うつもりがなくても、法的には分けて考えます。澪さんが灯さんへ全て譲ると言えば、良い母親に見えるでしょうが、事情を確認する前から自分の権利を放棄することまで、母親の義務にはしたくありません」「娘の代理人から、私自身の権利も守るよう言われるとは思いませんでした」「母親が自分
第70話 死んだ夫の研究口座は、娘の心拍へ治療指示を返していました 七海の監視端末へ表示された緊急停止画面には、「受信のみ停止」「送信のみ停止」「全回線遮断」という三つの選択肢が並び、それぞれの下へ、治療継続、証拠保全、試料維持に及ぼす影響が細かな文字で書かれていた。どれを選んでも誰かが後から責任を問えるように作られた画面でありながら、今すぐ選ばなければ、C由来細胞を含む地下組織から灯の心拍データが流れ続ける仕組みになっているところが、久瀬製薬の研究らしかった。「送信だけを止めます。受信記録と、これまでに届いた指示は消さず、証拠保全用の複製へ切り替えてください」 七海は迷いなく告げたが、確認画面へ指を置く寸前になって、私のいる病室の映像を見た。『澪さん、私は、Cに関係する外部監視者として、七十二時間の緊急停止権を使います。灯ちゃんの治療へ影響する可能性があるので、本当ならあなたにも確認したいのですが、確認を待つための権限ではありませんし、あなたの許可を得て使えば、結局、母親で大株主の人に従う監視者になります。それでも、何か言いたいことはありますか』「止めないでほしいと思っています。冬真の口座から有効な治療情報が戻っているなら、灯のために受信を続けたいですし、私へ聞かずに止められることにも腹が立ちます。ただ、だからこそ、私へ決めさせないでください。自分の娘を助けたい人間が、Cの細胞をどこまで使ってよいか、公平に判断できるとは思いません」『分かりました。腹を立てたままでいてください。私も、あなたに理解してもらえたから正しい判断だった、ということにはしたくありません』 七海が確認欄へ署名すると、地下組織から外部へ伸びていた通信量が徐々に落ち、最後には、証拠保全用の閉鎖回線だけが細い青線として残った。画面上では静かな変化だったが、その一本の線の向こうには、冬真の死後も動き続けていた研究口座があり、灯の小さな心臓から拾われた一拍ごとの数字を、私たちの知らない場所で受け取っていた。 篠崎医師は、灯の医療機器へ外部から直接命令が入った形跡がないことを確かめてから病室へ来た。夜明け前から働いているはずなのに白衣の襟は乱れておらず、その代わり、手にした
第69話 私が署名すれば、娘は十五パーセントを取り戻し、Cは父親を失います 冬真が死亡する三日前に預けた胎児認知の書類へ私が同意すれば、灯は冬真の娘として登録され、信託システムが停止した十五パーセントの受益権も戻せる可能性が高い。 しかし、その書類に記されている認知対象は、久瀬灯でもAでもなく、AとCを一つの胚だと偽装していた頃の名称であるAUR‐011だった。 私が、出生したAこそ認知対象だったと認めれば、灯の父親は冬真で確定する一方、同じ名称の下へ隠されていたCは、冬真が生前に認知しようとした子どもではないと扱われる可能性がある。将来、Cが出生したとしても、冬真の遺産や十五パーセントの分割を求めるためには、父親が亡くなったあとで、改めて親子関係を証明しなければならない。 書類の上では、認知できる子どもが一人しかいなかった。灯とCのどちらへ渡すか決められるような形で、その一人分の父親が残されていた。「認知書類を灯さんへ適用することに同意すれば、少なくとも父系認証の警告は解消できます」 芙美は、私へ同意書を渡す前に、選択によって起きることを一つずつ説明した。自分の娘のための書類なのに、私は受け取らず、机へ置いたまま話を聞いた。「Cについては、冬真さんの映像記録、遺伝学的検査、信託付属書から、父子関係を主張できます。ただ、生前に提出準備された認知届を灯さんへ使った事実は、旧取締役側から、冬真さんが認知しようとしたのはAだけだったという証拠にされるでしょう」「冬真は映像の中で、二人の娘だと話しました。それでも足りないのですか」「父親として考えていた証拠にはなります。しかし、認知届を作成した時点で、冬真さんはAとCを同一胚の分割組織として記録していました。法的に二人の子どもが存在すると認識したうえで、一人ずつ認知する意思があったのか、それとも一人だけが出生する前提だったのか、書類だけでは決められません」「本人は、最初から二人とも生まれるとは考えていなかったと話していました。Aが失敗した場合に、Cのことを七海さんへ伝えるつもりだったと」「はい。その説明を重視すれば、認知対象は、先に出生した一人の







